おゆきの日々

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折々の日誌  > 東京大空襲の日に


2015/03/10 Tue 15:21

 今日は一瞬にして東京が焼け野原になった東京大空襲の日です。
たった一晩で約10万人が亡くなったとされています。10万人、信じられない数字です!

1945年3月10日真夜中、東京の下町は米軍B29爆撃機から大量の焼夷弾による爆撃を開始されました。その少し前11月24日から東京への空 襲が開始されていました。
始めは軍需施設だけでしたが、効果が薄く米軍は無差別虐殺を実行した、とあります。

 今回はこんな話から始めようと思います。
私の人生の記憶は、真っ赤な空から焼夷弾が落ちてくる中を、必死に逃げ惑う場面から始まりました。
これは幼い時から周囲から聞かされ、いつの間にか自分の記憶のように錯覚していた記憶とは違い、本人の確かな所での始まりです。

当時私の一家は東京中央区に住んでいましたが、ここも危ないののではないかと感じ始めていたようです。
そのころ母方の祖母が1人息子を戦地にとられ、すでに夫は亡く1人で東京大森に住んでいました。その事が心配だったこともあり、また中央区馬喰町 での商売もすでに出来なくなっており、一家は大森の家で祖母と同居することにしました。
そこでも幼い子供をもつ人達は田舎があれば引っ越すように、と度々役所からの通達があったそうです。
6歳と生まれてすぐの乳児まで3人の子持ちであった両親は、一度は父の実家がある秋田に疎開していました。
そこで各所から集まっていた父の兄弟達一家との大家族の同居生活は、母には耐えられないほど辛いものだったようです。
食べ物を思うように食べられないのは他所から来たお前達のせいだ、とあちらの子供達からいつも白い目で恨めしそうににらまれていた、と母が私によ く話していたのを思い出します。
あそこにいるのなら東京で死んだ方がいい、とまで思いつめ間もなく東京へ戻ってしまっていたそうです。

そしてとうとう1944年11月24日、大森も爆撃を受け焼夷弾の中を逃げ惑うことになり、これが私が生まれてからのはっきりとした記憶の始まり となったのです。
パラパラパラと空から落ちてくる焼夷弾をかいくぐる中で、子供の私には恐ろしいというより、焼けただれた真っ赤な空がとてもきれいだったという印 象でした。

今度こそ再び疎開の決心をせまられる状況となり、覚悟を決めた後は持てるだけの物を持って逃げました。
疎開先での生活も考えなければ、と父は母のため昔の重い鉄製のシンガーミシンをバラして背負って逃げました。
「お父さんがミシンを背負ってくれなかったら、今のあなた達はなかったのよ」の言葉通りそのミシンのお陰で一家は食いつなぐことが出来ました。
その時、父の肩にはミシンが食い込み、唇は紫色になっていたと、後に母が話してくれました。

その頃疎開のため列車に乗る時は、子供の年齢は関係なく人数に対し1人何キロまでと荷物の重量制限があったそうです。
6歳の兄3歳の私もパンパンに詰め込んで足元にも届きそうな大きなリュックを、背負わされました。母はまだ1歳に満たない弟を背負い、手荷物も沢 山持っていました。
私は時々父か母に手を引っぱって貰いながらもすぐ離れてしまい、それでも逃げ惑う群衆の中を必死についていったようです。
今の3歳位の子供を見る度、よくはぐれず一緒にこられたもんだ、と大人になっても母からその時のことは感慨深げに聞かされ通しでした。
父がミシンを背負った力もそうですが、人間必死の時は小さな子供でも本能的に不思議な力や気が湧くのかも知れません。

それからのことははっきりした覚えがないのですが、家族全員が無事だったのを幸いに、まずは祖母をおいて私たち一家が先に再び父の実家へ疎開する ことになったようです。
着くなり住む所を別に探して貰う事にし、実家からは二駅ほど離れた雪深い東北で2冬を過ごすことになりました。
母が持って逃げた着物も全部食料に交換されました。
近所の人達の着物を洋服に縫い直してあげたりして母は一生懸命ミシンを踏み、やはり食料と交換していました。

間一髪で祖母も無事遅れてやってきて全員が揃い、そこで一冬開けた頃東京が大空襲を受けたらしいという情報を知ります。
そして広島、長崎に原爆が落とされ敗戦となりました。

しばらくして激戦地、南洋に赴いていた母の弟がその小さな田舎の駅に降り立ちました。
駅前には人の輪が出来、帰還兵を歓び迎えみんなで万歳を叫んでいた光景が残っています。
敗戦復興後の様子を見る事と住居探しのため、父は一度上京しており、その時義弟が帰還した時のために大森の焼け跡に疎開先の住所を書いた札を立て てきたそうです。
実際にそれを発見した叔父は、聞いたこともなかった所でしたが、母親と姉一家が待つ場所へ大混雑の列車に揺られてやってきました。
叔父は母の4人姉弟の末っ子で祖母の大切な1人息子、祖母はそれこそ毎朝神棚に影膳をすえ無事を祈り続けていました。
その祈りが天に通じたお陰か、叔父は激戦地と言われた南洋から数少ない帰還兵として無事に戻ってこられたのです。
彼の乗っていたトラックが移動中爆撃で川に転落、仲間の大半が亡くなった中で叔父は助かったそうです。彼の胸ポケットにあった懐中時計が、胸の ショックを和らげ助かったのではないか、ということでした。

その翌年の春私たちは東京に戻り、兄は新小学3年生に転入、私は今で言うなら幼稚園入学の歳でしたが、混乱時でもありそのまま新入学の翌年まで遊 んでいました。
当時は頬が真っ赤でまるで山だしの猿のようだったと近所の人達からよく言われていました。

家が建ち始めてもまだまだ周囲は焼け野原でガラガラでした。
元の家から数メートルの場所へ新築でしたが、その頃は馬喰町の家から富士山が見えた程です。
祖母、叔父と私たち家族はお陰様で全員無事で東京に戻る事が出来ました。

◎記録ではーーー
「当時のメディアが今のように発達していれば、いわゆる『東京大空襲』の想像を絶する地獄絵が世界の人々に伝えられたでしょう。
これは広島、長崎の惨事と並び、人類史上最大の虐殺だったと表現しても大袈裟ではありません。」とあります。

戦後70年の節目を迎えるといわれる今年2015年8月ですが、また世の中が嫌な感じの雰囲気になりつつあるのを感じています。
余りにも美食を求め、低娯楽に沸き、徐々に軌道がはずれた人々が何かを失いおかしくなってきているように感じられます。
今こそ一人ひとりが心を引き締めなければならない時ではないか、と東京大空襲の日の今日、改めて強く思いました。


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