おゆきの日々

  今どきこれって贅沢かもしれない?そんな何気な~い生活の日々そして常識と非常識の逆転もあり?の日々

折々の日誌  真冬に真夏の盆踊りを懐かしむ

         
2017.2.5
    
   2月に入り立春も過ぎた。
立春の前日、最近は全国的にも定着してしまった感がある「恵方巻き」を食べる習慣、我が家も昨年に
続きこれに乗っかってみた。コンビニが全国展開されるようになってからの商魂によるここ何年かの流
行りに思えるし、東京でも「恵方巻き」のことは全く知らずに育ってきたけれど、ま、楽しいことなの
で我が家でも取り入れることにした。と言っても勿論市販の物を買うことはないけれど。
今回の具には一匹ごと買って刺身に下ろした「いなだ」を一晩「ヅケ」にしておい物と卵焼き、椎茸の
含め煮、そして茹でた豆苗、紅生姜も彩りに少々。これに細い納豆巻きをおまけに作った。
我が家の「恵方巻き」には贅沢な物は入っていないけれど、やっぱり自家製の物は美味しい!とつい
つい自画自賛!

✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻✾✻

 さて1月も雪ばかり降っていたのに、2月に入ってもやっぱり雪ばかり、今年に入って1日中晴れた日
はたった3~4回位だったような記憶しかない。そして立春が過ぎてもまだまだ寒い日が続いている。
一昨日夫が雪下ろしに登った工房の屋根の上には1mをゆうに越す積雪があり、命綱をたぐりながら作
業をしていたけれど、いつも戻ってくるまでやはり心配ではある。
今冬の日々の降り方はそれ程の豪雪とは思えなかったけれど、止む気配がまるでなくダラダラ降り続い
ている内に気がつくと「積雪、凄いなあ!」となってしまっている。
でも昭和58年にこの地で体験した豪雪ほどではないので助かっているが、北陸や新潟の豪雪地帯の方達
からすればまだまだと言われそう。

 こんな真冬に何故か真逆の季節、真夏の盆踊りなどを懐かしく思い出してしまった。
毎日雪に埋もれて過ごしていると、早く春が、そして夏が来ないかなあ、と楽しかった季節を色々想像
したり思い出したりしてしまうことが多い。今日はそんな話を一つ。

 私は小さな頃から盆踊りが大好きだった。
生まれ育った問屋町の町内でも毎年盛大な盆踊りが行われていたけれど、隣町の日本橋横山町や隅田川べりの日本橋浜町へも歩いていける近くならよその盆踊り会場へもよく行った。
自分の町内と時期がずれていれば省線電車(省線→国電→現JR)に乗ってまで浴衣を着て妹と行った
ほど。
浜町は当時歌舞伎役者関係や踊りのお師匠さん(家元さん)などの方々が、多く住まわれていた地域だっ
たこともありそこの男衆の踊り姿は本当に美しかった。日頃から鍛え抜かれている言わば玄人さんたち
が何気なく踊っているのだから今思えばなんて贅沢な光景、子供ながらにうっとりと見惚れてしまうほ
どであった。
♪踊り踊るならしなよく(姿うつくしく)踊れ~と昔から言われているけれど、まさにその見本を見られ
たのは幸せだったと思う。

 ・余談になるけれど、地元花輪で行われる「町踊り」の中にも、私が上手だなあ、と思える男性の踊
りの名手が2人おられるが、お1人はお歳で亡くなったとのことで残念に思っている。

 長じて旅をするようになると、通い続けていたYHで盆踊りのある時期には浴衣を持って行ったこ
ともあった。
清里YHに泊まっていたある年、近くの「清泉寮」で盆踊り大会が行われたことがあった。 
正式には「八ヶ岳カントリーフェアー」となっていて、それは少し奥まった広い牧場の中で行われた。
参加者は夏休み中ここで過ごす立教大学の学生さんや清泉寮キープセンター関係の外人さんも多く、あ
とはそこの住人と言えばキープ財団の職員、その家族の方と関係者、そして近くの村の方たちだった。
そこへYHからも飛び入り参加と言った具合。



 「清泉寮」は広い牧歌的な雰囲気の中に建つ洒落た佇まいの宿泊施設。その周りには現在素敵なお店
がいっぱい増えて今も根強い人気スポットとなっているが、当時はまだYHの周辺には有名なカレー屋
さんと数件の建物しかなかった時代。YHから「清泉寮」までは歩いて2~30分、そこ位しか行く所も
なかったし。その道中も砂利道で両側には林が続いていただけだったような、、、。
その頃しょっちゅう清里通いをしていたので、清泉寮にも何回か行きセンターの職員の方と知り合いに
なった。「今度盆踊りをするからきたらいいよ」と誘われ、勿論後日浴衣を持って妹と参加した。
その浴衣は妹と一緒に母に教わりながら、当日に間に合うよう懸命に縫い上げて持っていったものだ。



「清泉寮」での盆踊りは毎年のことではなくたまたまだったようで、関係者の他には踊りを知らない人
の方が多く、また恥ずかしがってなかなか輪の中にも入ってこない。私は始初めての踊りでもすぐ覚え
てしまう方なので、YHから何人かと一緒に参加していたが、YHで仲良くなった地元の女性と妹と私
が勇気を出して踊り始めた。すると私の後に急に大勢が入ってきて、私の手振りを真似て踊りだし、何
やら踊りの輪の先頭になってしまった。私を見ながら慌てて手を動かすので、必ずワンテンポ遅れてい
るのが可笑しかった。
場所は牧場の中、草は短く刈られていたけれど、土ぼこりで足が泥だらけになってしまった。
清里の夜は夏でも寒い位だったけれど、本当に楽しかった思い出だ。

❤ 現在小舎本館の南側には工房が建っているけれど、始めの頃は何もなかったのである夏そこで盆踊
りをしたことがあった。結構広く平だったので会場としては申し分なかったが、その後工房を建ててし
まった。
そのあとは玄関前で行ったこともあったが、そこは道路が斜めになっていたので少々踊りづらかったの
は確か。けれどみんなで飾り付けをしたり、ドラム缶にかがり火を焚いたりしてこれも実に楽しかった。
女性だけではなく男性も浴衣を持ってきて下さった方もあり、いつもとは一味違う互いの姿に恥ずかし
嬉しと、場の雰囲気も大いに盛りあがった。



当時の小舎には外人さんも多かった


❤ 旧小舎の在った場所の手前に温泉プールがあったけれど、その広い駐車場で八幡平の部落の盆踊り
大会があり、そこにも小舎の仲間たちと参加したことがあった。
また今はすでに廃業してしまっている表通りの志張ホテルさんの駐車場でも、部落の盆踊り大会が行わ
れすぐ近くだったのでここにも大勢で参加したことがあった。

 こうして思い返してみると、実に色んな所で盆踊りを楽しんできたものだと思うけれど、その場所が
次々となくなってしまっているではないか!
子供の頃の町内の盆踊りは丁度交通量が多くなっていった時代と共に通りでは禁止になってしまった。
それで町内にあった私立の女子高(日本橋女学館)の校庭が長らく使われていたけれど、そこも校庭がつ
ぶされ、建物が立ち企業が1階に入り、女子高は2~3階に、と言うことになってしまった。
何しろ土1升、金1升と言われる都会の真ん中の土地はそうしてドンドン姿を変えていき、のんびり盆
踊りを楽しめる土地柄ではなくなってしまったようだ。
またごく最近聞くようになったのは騒音問題、盆踊りの音楽さえウルサイ!と苦情が寄せられてしまうことがあるそうだ。まさかと愕いてしまうと同時に、何とも余裕のない世界になってしまったのだろうと悲しくなってしまう。
都会だけではなく、こうした田舎でさえも土地はあっても楽しむ心とその環境が少なくなってしまって
いる気がする。
夏の盆踊り、本当に楽しいのに、今頃、もう盆踊りの時代ではないのだろうか、淋しいなあ!
雪の中で夏の楽しい思い出を、と始まった筈なのに、何だか雰囲気が変ってしまったような、アレレ?


 ↑ PAGE TOP

折々の日誌 > 次へ 真冬に真夏の盆踊りを懐かしむ 前へ