おゆきの日々

 今どきこれって贅沢かもしれない?そんな何気な~い生活の日々、 そして常識と非常識の逆転もあり?の日々

癌から復活物語 >その15 帰宅後1人旅へ出る


15〔帰宅後1人旅へ出る〕

3週間の合宿から帰宅すると、また宿の忙しい日々が待っていました。
掃除、洗濯、調理、受付、会計、畑、、、と様々な仕事があり、夜はお客様とお酒を中に夜寝るまでお喋りをしながらお付き合いをします。(私は飲めないのでお喋り専門ですが)

お客様用のシーツ洗濯は、結構時間と体力を要し、厨房では重い鍋釜を持ったりもします。
お客様の食事も全て手作り、その調理の味見をした後は、その都度飲み込まずに必ず口から出していましたが、これは粉ミルク食を辞めるまで続けました。

食事の時はお客様と一緒に食卓を囲むのが我が宿流の昔からのやり方です。
一緒に「戴きま~す」と言って皆さんは箸をとり私の作った料理を食べ始めて下さいますが、私は粉ミルクを溶いたものを飲みます。それを見ている方からは「よくガマンできますね」「かわいそう!」などと言われましたが、私は今はこれでいいのだ、と思っていましたから特に辛いとも感じませんでした。また甘いものを欲しがる体質でなかったのが何より幸いだったようです。

3度の食事は治療室ではミルクの他に酵素類他幾つか混ぜて飲んでいましたが、帰宅してからはそれらがコンスタントに入手できる物ではないので、自分の判断でドンドン省ける物は省いていきました。安全玉子もこの近辺では容易に入手できなかったので、それも同様になりました。
無理をせずゆっくりゆっくりの動作ではありましたが、そんな食生活をしていたのにも係わらず手術から3ヶ月ほど経つうち、それらの仕事をこなしていけるほどの体力がついてきたのは本当に不思議なことでした。

就寝前には毎晩必ず夫から、治療室で学んできたマッサージをして貰いました。
始めは大してどこが痛いとも感じていなかった身体でしたが、それが一旦治療室で受けた人生初のマッサージにより、体中の凝りが揺り起こされてしまったようで、それからはホンのちょっとどこに触れられても痛くて飛び上がっていました。
それはあまりに長い間血流が悪く全身がこわばってしまい、何も感じないほど身体がドンになっていたということだったようです。
そんな私でしたが、気がつくといつの間にか最後にお腹周辺のマッサージを受ける頃にはもうスースーと寝息を立てていたよ、と言われるようにまでなって、こうして身体の方も徐々にほぐれていったのです。

忙しさで寝るのも遅い日が続くとやはりお互い疲れて、「今日はパスでいいか?」と夫、私も早く寝たくて渋々「そうね、しょうがないか」となります。その内「今日も・・・」と夫、「エ~今日もなの」と私、知らずしらず夫を責めるような口調になっていました。
その時やって貰って当たり前、という気持ちになっていた自分に突然気がつき唖然としたのを覚えています。感謝の気持ちがまるでなかった自分が情けなくて涙が出ました。

これではいけない、人に頼りっぱなしの状況を変えなくては!それ以来自分で出来る限りのことはしていかなくては、と考えるようになりました。
それからはいいと聞けばすぐ1人で出来ること、お金がかからないこと、どこでも続けられることを条件に試行錯誤しながら色々ためしていきました。

こういうことをしていくことが出来たのも、私にとって幸いだったことがありました。
一般的に更年期障害は辛いものと言われています。その年代の頃、婦人科の臓器を手術で取ってしまうと普通より強い症状が現れ苦しめられるそうですが、私は更年期の辛さを知らないまま過ぎてしまいました。それは化学治療を受けず、更に断食をしていたお陰だと言われましたが、全くその症状を知ることなく過ごしていられたからなのです。
そのお陰で何をするにも楽に挑戦することができたのだと感謝しています。

手術の後、あと1年ほどと言われた命の筈でしたが、その日から2年後の11月末にはもう、東北から九州へ、1週間余の1人旅にも出かけられるようになりました。
どうしても参加したい学びの塾が九州福岡で開催されることになり、始めは少々不安ではありましたが気分は上々だったので行こう!と思い切って決めました。

大きなリュックには朝昼晩の粉ミルクを、1週間×3食分を1回分ずつ包んだ物も詰めこみました。

雪の降り始めた東北秋田の山の中からー東京まで新幹線、東京ー大阪まで夜行バス、大阪からは弟の嫁さんと合流、大阪ー福岡まで夜行バス、一緒に2泊3日の塾に参加しました。

今思うと結構ハードスケジュールみたいでしたね!

当時の元気な出発姿、48歳!
さすがにまだ少し顔はこけています。





塾の散会後は義妹と別れ、九州の旅仲間と再会、一緒に数日旅をし、その間治療室で一緒だった肺癌であと2ヶ月と言われていたAさんをお訪ねできて感無量でした。その時はボランティアでお忙しそうに活動されていましたが、驚くばかりのお元気さで本当に嬉しく思いました。

旅先でも私はどこに行ってもどんなご馳走を出されても、持参した粉ミルクを溶いて美味しいな~と思って飲んでいました。結構ハードな旅でしたが、お陰様ですこぶる元気で無事帰ることが出来、自信もつきました。

こうしたこともあって4年目も終わりに近づき体力的にも自信がもてるようになってきた頃、全く物を噛まない飲むだけの毎日に違和感を覚えるようになりました。物を噛む事によってあごが鍛えられ、脳も鍛えられると聞いていたので、このままあごを使わないと馬鹿になってしまいそうだと感じたのです。これ以上馬鹿になったら困ります。そこで自分の判断でミルク断食を止める決断をしました。

どうせ食べるのなら、今度は良く噛んで食べなければならない玄米食に切り替えることにしました。始めはご飯を玄米クリーム状にしたり、豆腐や納豆、蒸して細かに刻んだ野菜などから始め、徐々に噛むことを慣らしていきました。 
数ヶ月後には、少量でも内容には心を配っての普通食に自然に切り替わっていきました。

16〔癌になった意味〕につづく


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