おゆきの日々

 今どきこれって贅沢かもしれない?そんな何気な~い生活の日々、 そして常識と非常識の逆転もあり?の日々

昭和・私の子供時代 >3ー母のお産・袋に入ったまま誕生した妹!


2012/03/13

「母のお産」

 どんなに春めいて来ても3月半ば頃にはまだ最後の大雪がある、というのが例年の常でした。
この所天気も温かく比較的落ち着いていましたが、案の定昨日から久し振りの大雪となりました。夫は朝からこれもまた久し振りに悦っちゃ号を出動させ、除雪におおわらわです。

春の雪はすでにかなり水分を含んでいるので重く、見る見る内に積もります。
新芽が伸び梢の先が色付き始めた木々も、全てが真っ白に、それは美しい世界となっています。

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 雪深い北国で2冬を過ごした疎開先から、東京に一家が戻って来たのは4月の半ば、その時母
は臨月のお腹を抱えていました。
大混雑の盛岡や上野駅での乗り換え、道中はどんなに辛かったことかと今更ながらに思います。
帰り着いた新築の家は、畳もまだ全部は入っていないという状態でしたが、それでも母は一日
でも早く東京に戻りたかったようです。

帰り着いて間もなく母は急に産気付き、近所に産婆さんは居ないかと父や兄を走らせたようで
すが、よく判らなかったようです。
その頃近所といっても窓を開ければ何百m先の家もよく見え、焼け野原に残ったコンクリート
の家とやっと新築の家がポツポツと立っているような状態。
当然今と違い電話も携帯もインターネットも何もなく、疎開先から事前に帰郷先近くの産婆さんを探しておけるような状況ではありませんでした。

 母の床の傍らには祖母が世話役でついていましたが、事情を飲み込んだ母はまず湯を沸かし
ておいて欲しい、と床の中から自分の母にテキパキと指図していました。
そうこうする内に破水が始まってしまい、母の体内から出て来たのは、全身透明の水の膜に覆
われたままの赤ちゃんでした。袋(膜)に入ったままです。

自身4人も子を産んだ祖母も初めて見る異様な光景に気も動転 。
そんな祖母に母は「ハサミをしっかり消毒し赤ちゃんの目鼻の部分に充分気をつけ、膜をホン
の少し切って」と指図します。
指図通りに膜が上手く破れた途端サアーっと水が瞬時に流れ出し、無事に赤ちゃんが出てきま
した。
何分かそのままにしておくと赤ちゃんは窒息して死んでしまうそうですが、瞬時の的確な処置
のお陰で五体満足の妹が、奇跡的にこの世に誕生できました。

 こんな話、まるで私が傍で一部始終見ていたようでしょう?
実はその後母や祖母から度々聞かされ、総合してもうすっかり自分の体験談のようになってしまっていたのですね!

母は助産婦の資格も持っていましたが、仕事にはしなかったようです。祖母は「ホントに気丈
な人だったネ!」と事ある毎に自分の娘の事を私に話してくれていました。

 戦後から2年後のまだまだ混乱期、それぞれの家庭では更に様々な物語が起こっていたこと
でしょう。
妹とは6歳違いですが、私もまだ小さな女の子、以後この姉が外に遊びに出る時は必ず妹を背に
くくりつけられてしまう事になりました。
私がおぶってあげていたその妹は、中学生頃からぐんぐん私の背を抜いていき、ついには5cm
も抜かれ今では私を見下ろしながら「ほらお姉ちゃん、早く歩かないと・・・」なぞといっぱしの大人になってしまいました。

 その頃の私は2冬の雪国生活で頬っぺは雪焼け日焼けでまっかっか、林檎のような、と言われ
たいところですが、山出しの猿みたい、とよく言われていた女の子でした。


その山出し小猿が生まれたばかりの赤ちゃん猿を背負わされ、迷惑そうな顔をしている貴重な写真を今でもとってあります。 

よく撮ってあったと感心しながらも、若い頃はこの写真がちょっと恥ずかしかったものです。
今見れば可愛いかったなァとつくづく思える、懐かしくも大切な写真となっています。




昭和・私の子供時代 >3ー母のお産・袋に入ったまま誕生した妹! 


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