おゆきの日々

  今どきこれって贅沢かもしれない?そんな何気な~い生活の日々そして常識と非常識の逆転もあり?の日々

折々の日誌 > 私の4月4日

         
2011.4.4

   今朝も晴れていたのでいつものように2人でバス停まで散歩に行ってきました。
バス停手前の道路からはるか左眼下の川面を覗いたら、突然足元から「ヤマセミ」が飛び立って行きました。
雪がまだうず高く積もる岩の間を流れる川に、もう岩魚が姿を見せ初めているのかな、とちょっと楽しくなりました。

 さて今日「4月4日」は、私の大病から復活後、新たな22歳の誕生記念日です。

平成元年(まさに癌年!)3月末、身体の異常を普通ではないとはっきり感じた時すでに遅し、即入院、手術が必要という段階でした。
けれど手術の空き予定日は4月の半ばまでズッとふさがっており、空いているのは4月4日のたった1日のみという状態でした。
4、4は死が重なると連想され、病人としては出来るならその日は避けたいと思われるのでしょうか?
その頃地方ではまだそんな思い方をする人達が多かったようです。どうします?と聞かれました。
私には「あ~4(よ)い4(よ)い、4と4(しとし)が合わさってし、あ、わ、せ(幸せ)じゃないの!」と別の見方が浮かんだので、即その日にお願いしました。
お陰で当日その科の手術予定者は大病院にも関わらず私のたった一人のみ、丁寧な治療を受けることができ、これも物事の捉え方一つだと思いました。
この4月4日を境に私達夫婦の生き方が大きく変わることになっていきました。

患部全摘出手術を受けたものの、うまくもってもあと12~3ヶ月の命と宣告されました。
(これらは全て後になってから聞かされたことです)
それでも医者が人の命を決められるものではないと、現代西洋医学の行き詰まりを感じとっていた夫は、同意見の私の弟と色々相談しあった結果このまま病院において置くだけではただ死を待つばかりと判断したようです。
そこで東洋医学系の断食治療室を見つけてから、主治医の先生とよく話合い、術後2週間の抜糸を待って即退院ということにさせて貰いました。
その先生は、夫が薦める治療室へ移るか、このまま主治医を信頼して病院にまかせるか、判断は当事者の私にまかせよう、と当方の気持ちを尊重して下さったそうで思えば人として本当に素晴らしい方でしたが、私は夫の意見を受け入れました。

 4月20日過ぎに退院してきたその場から即ゴールデンウィークに突入しました。
お金も必要ですからしっかり稼いで、とまだ痛いお腹を押さえながら必死で受付をし、食事を作りして夢中でその場を乗り切りました。
当時はまだまだ世の中の景気も良い頃で面白いようにお客様も詰め掛けて下さり、連日超満員、大盛況で嬉しいことでした。
期間中は男性ヘルパーさん1人と弟夫婦が大阪から駆けつけてくれ本当にありがたく助かりました。
術後の傷が痛くて苦しかった最中でしたが、みんなと大いに笑って楽しい10日間を過ごし、最後のお客様が発たれると同時にその日の昼前にはパタパタと宿を臨時休業としました。
そして慌しく準備を整え昼過ぎにはもう2人で東京へ向かい、その治療室で3週間の断食合宿を受けることになったのです。

その間、夫も私と全く同じプログラムで過ごしてくれました。
帰宅後は、日常生活での最低栄養分として赤ちゃん用の粉ミルクをお湯で溶いて飲むだけの半断食生活を約4年間続けました。
お客様の食事を作り味をみても飲みこまずに、はき出します。食卓では全員一緒のお食事、「いただきま~す!」と皆さんが箸を取る時私はミルクのカップをとり、楽しく語らいながら戴いて、それが3度の食事でした。
みなさんに「可哀そう、お腹すかないの?」とよくきかれました。勿論お腹ペコペコにすき、いつもグーグー鳴りっぱなしでした。
今は全く飲みませんが、昔からミルクが大好きだったのでこのミルク食と、きっと相性も良かったのでしょう。まずくて嫌だと思ったことはありませんでした。

 そんな食事だけでしたのに不思議にも体調は日増しに良好へ向かい体力もつき始め、畑仕事などにも出られるようになっていきました。最後の頃にはそろそろ噛む物に切り替えていこう、と自分で判断するようにまでなっていました。
良く煮てつぶしたりと赤ちゃんの離乳食めいた食べ方から徐々に始め、納豆や豆腐などもとり、蒸し野菜は特に多かったと思います。
そんな食事がよく続けられますね、とも言われましたが、今はこれが最良、と思っていたので苦にはなりませんでした。
体調が戻るにつれ普通食に慣らしていきましたが、どうせなら野菜中心のしっかりと玄米を噛む食事にしようと、これもまた自分なりの判断で調味料を含め昔の食べ方から全てを切り替えていきました。
そこに至る迄の過程の年月は大変な意味があったと思います。

 病院を出て以来その後今日迄ただの一度も検査には行った事はなく、一粒の薬も飲んだこともないのですが、自分の身体に聞きながら元気で22周年を迎えることが出来た喜びは大きく、支えてくれた夫や弟達に深く感謝するばかりです。
また抗癌剤などの徹底した化学治療がこれから始まる、という直前に退院できたお陰で、その後は年齢からくる更年期障害の苦しみなども何一つ知らずに過ごせているのは幸せです。

「断食」は身体に飢えという一つのストレスを与えることにより、各細胞本来の働きが精一杯引き出されるという仕組みになります。
それ迄溜まっていた余分な毒素をまず排出し、身体を浄化し、その結果免疫力も高まり健やかな身体へと向かいます。

 振り返れば私は肉の脂身が好きでしたし、モツ類、卵、牛乳も。
朝起抜けからすぐグーとお腹が鳴る方で、これは健康だからとばかり食事はいつも3度3度しっかりの量をとっていました。
断食では間食も勿論駄目、それがとても辛いと多くの方が言われますが、幸い私は元々菓子類は好んで食べる方ではなく、普段から殆ど間食はなかったので、断食中はこの事では楽で助かりました。

甲田式西式少食健康法と言うのがあります。要するに私の体としては必要以上の量を取り込んでいたように思います。各々の内臓が消化の働きに追いつけず、また鈍化して怠けていたりで、きっと毒素がどんどん溜まってしまっていたのでしょう。
以前は便通も1週間~10日位ないのも普通で、今思えばもうこのこと自体が異常なことでした。
そんな私でしたが、今は3日も便通がないと、大騒ぎです。
最近では、夫も同じ意見で朝食も抜き1日2食に、いつもお腹がすき切ってからの食事となり、1食の量も随分少なく簡素な物となって、今の栄養学にはあまり興味がなくなりました。

 現在の私達は正しい食事のとり方も大切ですが、身体は食物だけで作られているのではない、と感じるようになっています。1週間位食べなくても人は簡単には死にません。
今回の震災で9日ぶりに救出されお元気だった少年とおばあさんもそのいい例でした。本当に良かった!
食べる物がない、という恐怖感で人は弱ってしまうのです。

食糧危機は近い将来必ず突然にやってくるかもしれません。
これを機に今から意識を食べ物から心の持ち方の方へ移行させる練習をしていくつもりですが、出来れば食べなくても生きられるようになりたいとも思っているのですがさて???
(実際に世界にはいらっしゃるようですが)

こんな訳で私にとって、4月4日は毎年お陰様の日なのです。


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