おゆきの日々

 今どきこれって贅沢かもしれない?そんな何気な~い生活の日々、 そして常識と非常識の逆転もあり?の日々

昭和・私の子供時代 >5ー火事が復興に拍車をかけた話  


2012/03/18

「火事と復興」

今日はモヤッとした曇り空です。
3日前の朝はまた30㎝近くもの積雪!2日前は大快晴、抜けるような青空はまるで春。
冬、春、冬、春、忙しそうに陽気は徐々に春に近づいています。

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 さて今回は火事が町を変えていった話をしてみます。
思い返せば私の子供時代、近所では信じられない位の火事が頻発していました。
大袈裟のようですが、毎晩のようにと言う時期もありました。
戦後すぐはまだまだ建築資材も満足な物が揃わず、新築できるだけでもありがたかった位で、
当然基本は木材と燃え易い物ばかりでした。

私の生まれ育った馬喰町4丁目という町は、地方やデパートへの卸し専門商店が集まっている
所で、直接店に素人が買いに来る所ではありませんでした。
それに対し隣の馬喰町(1~3丁目)、横山町といえば衣類関係の大問屋街で、当時全国から多
くの小売業者や素人さんも仕入れにくるいつも賑やかにごった返していた町でした。

その頃横山町には衣類の他、例えば筆箱や下敷きなどの文具、裁縫箱などを扱っている小間物
屋さんが多く集まっていました。
それらの材料はみな「セルロイド」という物で出来ていました。
このセルロイドという物質は非常に燃え易く、火が点くと一瞬にして大きな火柱がボーッと立
ち上りあーっという間に燃え広がってしまいます。
当時はまだ「プラスティック」の登場前で、裁縫箱と言えばセルロイド製、当時の女の子なら
誰でも持っていました。筆箱や下敷きなどの文具はどんな子供達も使っていた物です。
可愛いキュウーピー人形もセルロイド、懐かしいと思われる方もいらっしゃるでしょうね。

どこの店も小さな家内工業で、夜遅くまで火を使って仕事をしていたようです。
ふとした何かの弾みで火を出してしまうのか、嘘みたいに毎日のようにどこかしらで火事が起
きていました。

背の高いビルもなく見通し抜群だった時代、丁度都電通りを挟んだ向かい側の我が町内からも
その火事はよ~く見えました。
勢いよく上がった太い火柱は夜空を真っ赤に焦がし、メラメラと燃え上がる火の手は妖しく、
何故か見る者を興奮させました。
適度に離れている安心感も手伝い、都電通りにはいつも野次馬があふれていました。

不謹慎にも今日はあの辺かな?と見当をつけその方角から炎が上るのを期待したり、いつしか
毎夜の火事見物が楽しみになっていた時がありました。
不思議に死傷者は殆んど出なかったように思いますが、それが救いでもありました。
今ではよく知られている大卸会社「エトワール海渡」さんもそんな横山町の小間物やさんから
が始まりでした。

そうして次々に燃え易い家が燃え尽きていく頃、横山町は次第に耐火建築に生まれ変わり、
時代と共に立派な大問屋街へと変身し、復興を遂げていきました。




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