おゆきの日々

 今どきこれって贅沢かもしれない?そんな何気な~い生活の日々、 そして常識と非常識の逆転もあり?の日々

昔の八幡平・YH >八幡平大沼YHー3


2011/01/15 Sat 23:21

・その3 八幡平大沼YH-3
その頃秋田県側から八幡平大沼まで行くには、八幡平駅前から「蒸けの湯温泉行き」のバスが出ていました。
341号線の志張温泉からトロコまでの区間は、現在旧道となっている細い道が昔の国道で、大沼まで行っていた当時の私も、今の小舎の目の前をバスで通り過ぎていたことになります。
こんな細い曲がりくねった道を大型バスがよく通っていたもの、とゾッとしながらも感心しています。

昭和39年に初宿泊の後、43年に再訪した時はペアレントさん(以後Pさん)は熊さんに変わっており、前任の方は独立されて田沢湖YHを築かれていました。
その後S46年に行って以降は何回も通う事になり、S46年はフルシーズンを、S47、48年は続けて秋の閉館パーティーのヘルパーをさせて貰いました。

S46頃からYHの移転が迫られ、本決まりとなった48年の秋10/31、この建物を壊す本当に最後の閉館パーティーが行われる事になりました。
その日を目指し1週間当たり前からぞくぞくと様々な思いを胸に仲間達が全国から集まり初め、もの凄い熱気に包まれていきました。

当日は100人を越す宿泊者の受付を最後迄させて貰うことができました。
(定員は36名なのに・・・?)係りはおいどん、ゲジさん、私です。
全てが終って3人は天井を見上げ、まるで放心状態でただ「ア~終ったネ」、とつぶやきました。

10年の間にPさんは3人交代、初代は田沢湖YH,2代目は熊さんで大沼の後は弘前YHを、3代目は移転してからの方で山形YHでそれぞれ独立されました。

爆発的な人気が出たのは2代目の熊さんになってからで、私は主にその時手伝わせて貰えて本当に幸せでした。大沼YHの初期から最後まで見届けたのは私一人だけであったので、ここに青春の全てをかけた気になっていました。その場がこれで無くなると思うと感慨無量、無性に淋しくてたまりませんでした。

10/31のお別れパーティーまで昼は大沼散策へ、頂上へ、焼山登山へ、そして温泉も今より沢山あり、各自が好きな場所へ行き楽しみながら最後の日を待っていました。
中でも特にその頃あった澄川温泉がみんなの一番のお気に入り。
大沼の遊歩道の向こう側から獣道のような細い藪の下り坂を30分程たどると、白煙上がる湯治場の澄川温泉に着きます。

温かいオンドルの一部屋を借り、ギューギュー寿司詰めの状態でお茶やビールで乾杯、賑やかなお喋りに興じ、さっきまで知らなかった若者同士が生涯に亘る友となっていきました。
宿のおばさんがYHの若者だと安くまけてくれたりもしました。

10/末ともなれば大沼辺りはすでに数回の降雪をみて、YHで朝目が覚めると隙間だらけの窓から入った雪で、枕の頭上が5㎝幅状にうっすらと白くなっていた事もありました。
そんな寒さで震える季節ではありましたが温泉でほてった体で帰る上り坂、大沼の周りを紅葉の名残りを惜しみながらグルッと一周すると、YHまでは冷めずに帰れた丁度良い最高のコースでもありました。
この温泉もH9年5月に土石流災害で流され今はもうありません。

閉館パーティーは少し離れて隣にあった国民宿舎を借りきり(現、温泉ゆらら)、100人余が笑い、語り、肩を組み歌いあって皆涙した盛大な会で惜しみながら幕を閉じました。
このYHでめぐり合い、結婚したカップルが一体何十組生まれたことでしょう!
その夜は誰も部屋に寝る人はいませんでした。仮にいたとしてもその寝場所も充分にはなかったのですが? きっと人数分だけの若者達のドラマがあった筈です。

オンボロ大沼YHの建物閉館を機に、私は自分の宿開業に動き始めることとなりました。

〔ゆきの小舎ー1〕へつづく

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