おゆきの日々

 今どきこれって贅沢かもしれない?そんな何気な~い生活の日々、 そして常識と非常識の逆転もあり?の日々

昔の八幡平・YH > 八幡平雑感2 頂上縦走コース


2016/09/20

・その9 頂上縦走コース
これは1960年代(昭和30~40年代)頃の話。
私が初めて八幡平に足を踏み入れたのは昭和39年8月、帰宅後のその10月には東京オリンピックが開催された年でもある。
6歳違いの妹の高校3年生の時の夏休みを利用して、姉妹で楽しい北東北への旅に出た。
北端は下北半島から南下しながら、南端の〆が八幡平というコースで約2週間の旅程を組んだ。








昭和39年1冊のスケッチブックにまとめた「のんびり東北旅日記」より



現在大沼ビジターセンターとなっている当時出来たばかりの八幡平大沼ユースホステル(以下YH)へ1泊した翌朝、下北の旅の途中で知り合った東京の大学生2人とここで落ち合い、4人で八幡平頂上へ向かい出発した。
当時はまだ現在のアスピーテラインはなく、登山道は蒸けの湯温泉の脇から始まっていた。
蒸けの湯温線までは大沼からバスがあったが、ちょっとうろ覚えになってしまったけれど、まだ完全な舗装はされていなかったような記憶が、、、。
後生掛温泉を過ぎしばらくすると、ガタガタとした砂利道の両側は次第に草深くなり、ついにその先に道はなし、というドン詰まりの壁に出て終点。そこからいよいよ登山開始だ!
(現在の大深温泉バス停と蒸けの湯上の駐車場の間のすぐ上辺りからになる)。

登山道は両側が青森トドマツやハイマツ、潅木に囲まれ視界が全くきかず、足元も大きな石がゴロゴロと歩きにくく登っていても少しも面白くない!やっと頂上へ着いたと思ったらそこもまた視界がきかない。
八幡平はその名の通り殆ど平(たいら)な山なので、頂上らしい雰囲気の高みがまるでないため、わずかに櫓を組んで頂上としている。その上へ登ってもやっぱり視界は殆どきかない、という観光地としては珍しい景観の場所でもあったが、そこは若い男女4人のグループ、景色がどうあれ実に楽しい道中ではあった。

頂上の櫓に上がりお喋りを楽しんでいる内についのんびりし過ぎてしまったようだ。
出発自体が割りと遅かったので、このままの進み方では、夕方までに岩手県側のYHにたどり着けないことが判り少々慌てた。太陽も大分傾きかけてきていた。
どうするか色々検討しあった結果、今夜は無理せず「見返り峠」から「藤七温泉」に降りて泊まろう、と言うことに決まった。
話が決まればそれまでのちょっとした不安も消え、またルンルンと気持ちよく歩き出した。
それからは八幡沼を見下ろし、湿原の中を抜け、これまでとは全く反対の広大な高層湿原の大パノラマが広がっていくのを楽しんだ。

ふと気付くと「黒谷地湿原」という標識が現れ、あれ?
地図を広げると「見返り峠」から大分来てしまっているではないか!どうやら「見返り峠」から
「藤七温泉」へ下りる曲がり道を見落とし、通り過ぎてきてしまったらしい。

日は暮れ始めている、またまたどうしよう?と4人は頭をひねり合い、地図をよく見ると「黒谷地」から「藤七」へ下る小さな山道があったのを発見、確かに脇に標識があった。ヨシッ、これで行くしかないと決めた。










「のんびり東北旅日記」より
(この標識今はもうない)


すでに周囲は暗くなり始めの時刻、現在の「黒谷地湿原」バス停の脇辺りから下りが始まる細い獣道のような山道へ分け入った。
始めは順調に4人揃って歩いていたが、その内徐々に離れていって一人で歩いている時間が多くなってきた。私の先にも後にも人影は見えず、呼べど叫べど返事もない。不安な気持ちでいっぱいだったけれど、頼りなげな懐中電灯の明かりを足元に照らしながら、それでも歩き続けた。
道は石ころも踏みしめられていて案外歩き易かった。両側は丈の高い草薮に挟まれ、完全に足元しか見えないような暗さになってきていたが、それでも周囲の地形などは迷わずに見えていた気がする。

小一時間ほど全くの1人で歩いた頃、下の方にポツンと宿の明かりのような光が見えるわずか平坦になった所へ出て、物凄くホッとした。そしてそこには学生さんの1人と妹の2人が後ろの連れを待ちかねているように立っていた。
妹は前日のYHで散々クマの話で脅かされてしまったので、懐中電灯の光の輪の中にクマの足跡が見えたらどうしよう、と怖くて怖くて自然に足早に駆け下りてしまったと言う。
学生さんも一緒についてきてくれたそうだが、もう1人の学生さんがまだだと言う。
まだだと言う学生さんは妹たちの後ろを始めは私と一緒に歩いていたが、途中でちょっと靴の紐が緩んで、すぐ追いつくから歩いていて、と言われそのまま私は先へ進んでいた。けれど私もどうも知らない内に駆け足のようになっていたのか、その彼とは完全にかなりの距離が開いてしまったようだった。
しばらくして後やっと4人が無事揃うことが出来た時は、感激の思いだった。4人が無事揃ったことと、下に見えた明かりに勇気付けられ、みんなで逸る心で宿まで一気に駆け降りた。



←当時の藤七温泉彩雲荘




←宿の明かりが見えた!

「のんびり東北旅日記」より


時間はすでに7時を回る頃だったがザワザワと大変な混みようだった。
宿に予約はしていない。山の中、公衆電話も、ましてや今のような携帯もなかった時代、完全なる飛込みだったので、まず部屋があるか、夕食を食べさせて貰えるかが一番気になったが、幸いにも部屋があり食事も用意して貰えることになりどんなに嬉しかったかしれない。

そして受付のおじさんにこっぴどく叱られた。「月夜だったからよかったものの途中で雨にでも降られたらどうするんだ!こんな無謀な子達は初めてだ!」
当然だ、学生さんたちはしっかりと山の用意をしていたようだが、私たちは登山の何の用意もしていない、しかも何とスカートにズック靴、食料も何も持たず小さなリュック一つをちょっと担いでいただけの急に思い立っての登山だった。ホントにあの頃はナ~ンニモ知らなかった!
足元ばかりに気をとられていたけれど、確かに月夜だったし本当に運が良かったとしか思えず、
おじさんのお叱りをしっかりと受け止めさせていただき、その後もよくその時のことを思い出しては恥ずかしくて苦笑している。

当時「藤七温泉」の宿にまだ電気はなく、部屋の明かりはランプだけだった。その明かりは慣れないと心もとなくわびしかったが、それでもこんな時間でも寄せ集めるようにして何とか揃えて用意して下さったご飯は素朴で美味しかった。
その頃の山の上の宿は温泉ではあってもいわゆる山小屋と殆ど変わりない状態であった。無線はあったけれど一般の電話はなかったので山の中で急な天候などの変化で客の予定が変わっても連絡のしようがなかった。そのため宿側もこうした飛び込み客の出現にもそれ程驚くことなく対応してくれる処があったけれど、私たちはそんな中でも呆れられてしまった。
ともかく無事にたどり着くことが出来、部屋と食事にありつけたことは幸いであった。
4人で乾杯し、食後はゆったりと温泉につかり、恐怖の登山行の疲れを癒し早々に床に入った。

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昨夜はぐっすりと眠ることが出来た。
登山客たちは5時6時と出発が早い。私たちはゆっくり朝食を戴いたあと7時頃に出発。
昨日間違えて通れなかった正規のルートの急な登山道を登り始め、およそ40分程で現在の頂上駐車場である見返り峠着、そこから今度はだらだら坂を20分程登ると八幡平の瞳とも言われる美しい八幡沼を見下ろす高台に出る。反対側にはこじんまりと澄んだ濃い藍色のガマ沼がある。
(この辺りに関しては日誌  2016.9.12 「久々の八幡平頂上へ」


ここに懐かし~い、姉妹が乙女の頃の白黒写真を一枚!
八幡沼をバックに。

まだ頂上への石畳、階段もなく道は泥だらけだった。

昭和41.10月


当時は今のように整備された登山道はまだなく、木道らしい物も完全な形ではなかったような記憶だが、どうだったか?・・・と言うのは、その時木道から脇へ下りた記憶はなく、少し乾いた高みの草原を見つけた私たちはのんびりと腹ばいになって休憩などしていた。
その内お腹辺りが何となく冷たくなってきたのに気付き、慌てて起き上がってみるとしっとりと濡れていて、やっぱりここは湿地だったと笑い転げながら改めて知った思い出がある。
それから考えると、まだ木道自体がなかったのではないかと思っているのだけれど。人の歩き進んだ踏み後が、自然に縦走路となったような道だった。


”お花畑 時期は遅く青草ばかり 
なだらかな青い原
涼風が吹く空あくまでも澄み 
流れゆく白い雲
昼寝をすると草のにおい 
赤トンボの群れ 時が止まる
ボワ~ン・・・夢の中” 
のどかな のどかなひと時きでした。




「のんびり東北旅日記」より




赤とんぼが群れ飛ぶ湿原を気持ちよく進むと間もなく源太森、そこからは途中八幡平で一番美味しい湧き水と言われる「クマの泉」を通るのでちょっと立ち寄り、本当に冷たくて美味しい水で喉を潤して行く。
それから昨夜藤七に下り始めた箇所である「黒谷地湿原」に出る。ここから恐怖の下りが、、、と、思いだしながらその横の昨日行っていた筈の道を進むと茶臼岳。その裾にはちょっと崩れそうな避難小舎があり~大黒森へと抜け、そこから先は夏場は登山客用に動いていたスキーリフトを使うことが出来、次々に回ってきていたリフトに腰掛ければ一気に下山することが出来た。

当時は松尾鉱山の最盛期で、リフトは周囲に赤茶けて裸になった岩肌を見せながらも、山の活気ある雄大な景色を正面眼下に見下ろしながら御在所まで下っていった。
リフトを降りたすぐ先に、日本中で最も人気あるYHに選ばれたこともある八幡平YHがあった。
そこもまた若者たちで溢れ返っていた頃で、その日は疲れも感じず夕食後の楽しいミーティングに参加し、翌朝大きな思い出を作ってくれた2人の学生さんたちとの別れを惜しんだ。

秋田県側の八幡平大沼YHから岩手県側の八幡平YHまでは、わずかのアップダウンはあるものの、豊かな植生に囲まれて、伸びやかに広がる大高層湿原をのんびり歩いて行く丁度いい一日の縦走コースであった。
今、藤七へ降りる車道は舗装された立派なものになり、昔は藤七終点だった道が松川方面まで整備され延びて樹海ラインとなり、藤七へは途中畚岳(モッコダケ)への登り口を横に見ながら車では10分もかからない位で着いてしまう。
あの時4人が心細くバラバラになって歩いた山道が、今はどうしてもどこだったか見つからない。アスピーテラインができた時に完全に潰されてしまったのだろうか?

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妹との素晴らしかったその旅を帰宅後約2ヶ月かけてスケッチブック1冊分にまとめておいた。
ー「のんびり東北旅日記」ー
当時は今のようにカメラは1人1台の時代ではなく、ましてやデジカメも携帯のカメラもない。
だから1枚ずつを大切に撮っていたが、それでも足りない分を私は挿絵で補って楽しんでいた。
今となれば貴重な思い出となっている。


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